齋 正機
日本画家・両口屋是清美術顧問
ぎふ美術展賞作品「待宵」は今回の審査において象徴的な作品である。“醸し出す佇まい”が素直に心の柔らかい場所に響くのだ。そして優秀賞「稲葉山」からは“風景を深くみつめる愛情”を感じ、同じく優秀賞「フィレンツェのショーウィンドウ」からは、“お菓子をみた喜び”をじわじわと感じるのだ。この賞作品3点には、絵を描くことに大切な“心に届く”何かがふんだんにあるのが嬉しい。
奨励賞の「初夏」「神聖」には、日常では見逃してしまいそうな“まなざし”を感じる。また「想う日」の夕日には制作者と同じような感傷を共有できる何かがある。
他にも入選作品で気になった作品は何点もあった。「視線」には“真正面からみつめる強さ”、「雪景色」からは“あの日、あの時の温度”、「祈 平和」からは“大きな願い”、「土山」からは“土の持つ色の素朴な美しさ”を感じさせてくれた。
絵は鑑賞者がいて成り立つ。一人よがりでなく、見る側との共鳴こそ醍醐味だということを感じさせてくれた。そんな審査だった。
千住 博
日本画家・日本芸術院会員
今、目の前に並んだ入賞作を前にして、絵というのは、結局は作者の人柄ではないかと、言い尽くされた言葉を思い出しています。
素直に見て、素直に描く、それは易しいことではありません。どうしてもエゴが入ります。しかしながら芸術というのは、素直さが原点で、到達点なのです。ですから、それを目指して欲しいのですが、その素晴らしい素直な作品が今目の前に並んでいるのです。
そして、私は、という自己表現ではなくて、私たちは、という人称で語られる世界表現です。私たちはこういう世界に生きています、どうですか?という問いかけです。その時、見る方が、私もそう思う、ということを共感といいます。多くの方の共感を得る作品は、皆さんの共通項で語られた作品です。つまり、人間として感動し、人間として描かれた作品です。
ここには世界の誰が見ても共感できる夢があります。生きる力があります。平和な日常があります。素晴らしい世界に出会えて、私は幸せを感じています。
奥谷 博
洋画家・日本芸術院会員
第2回展に続けての審査で、前回は、もっと大作が多かったが良い意味で整理され、自分の力量を考えての大きさになったと感じた。全体的に深い作品が多くなり、これが大切な事であるが描き切ったという作品も見られた。
ぎふ美術展賞の田中茂さんの「唐草黎明期」は、大作であり大変な力作である。作品として描き切ったという感があり、宇宙観がある。秀作である。
優秀賞の大塚佳美さんの「自然はみている」は、画面全体に異様に感ずる形の力強い木を表現した。力強い作品になっている。優秀賞の村田莉緒菜さんの「無題」は、作品に透明感を感じ、明るい色彩で画面がモダンである。
奨励賞の「静かなる眼光。」の石神純一さんの作品は、描き切った力強さがあり若々しい力強さを感ずる。杉田泰昌さんの「兵庫運河の作業船」は、運河の広がり、自然の位置を意識して表現しているところが強みである。西本智子さんの「少女と象」は、子供の様な純粋な見る目が、感ずる力が真実にせまっていて強い作品になっている。野崎庄司さんの「路地階段」は、自然を見て色々な形を感ずる力が出来ている。それが作品にも生き、目の動きが少しずつ階段を上り、中央の空に自然と動く構図となり大変良いと思う。
椹木 野衣
美術批評家・多摩美術大学教授
全体に荒々しい表現主義的な傾向よりも、静謐で透明感ある作品に優れたものが多かった。コロナ禍となり内なる自己へと内省の目が向かった結果だろうか。それらの絵は、20世紀初頭に猛威をふるったスペイン風邪によるパンデミックのあとで、新即物主義と呼ばれる独特の醒めた目線が芽生えたことを想起させる。
ぎふ美術展賞を受賞した田中茂さんの「唐草黎明期」はその結晶とも呼べる秀作だ。子供たちと動物たちの見つめる空の彼方にはなにがあるのか。夢のようでいて冷徹なリアリズムに写実とも超現実とも異なる新時代の息吹を感じた。
優秀賞となった2作、大塚佳美さんの「自然はみている」と村田莉緒菜さんの「無題」にも、同様の眼差しが見て取れる。拳を振り上げたかのような樹木は人の彼方にある自然からうち振るわれている。浴槽でかがむ人物は顔を伏せて自己の内を凝視する。奨励賞の2名も人が不在か、もしくは世界に背を向ける石や動物の存在感に巧みにアプローチしている。
建畠 晢
多摩美術大学学長・埼玉県立近代美術館館長
彫刻部門は応募点数はすくなかったが、クオリティーの高い作品が揃っていました。
ぎふ美術展賞の清水朋文さんの大作は斜めに傾いた塔と分断された壁のような石塊(層状の刻みがほどこされている)とを組み合わせたもので、不可思議な物語性を感じさせる表現に魅せられました。
樋口勝彦さんの「“生命(いのち)のかたち”」はいくつかの有機的な形態の木塊を組んだ作品で、大小のノミ跡の違いを生かしたテクスチャーや、ボリューム感と空洞とを対比させた構成が興味深い。タイトルにこめられた祈りのような思いが、その表現により深い奥行きをもたらしているようでもあります。川上正昭さんの「変化する熱Ⅱ」は、半透明のパラフィンの分厚い板を何層も重ねた作品で、ソリッドな物体とは異なった、一種ニュートラルでもある質感を生かした特異な造形感覚を評価しました。
今回はトルソや頭像などのいわゆる塑造の具象作品が見られず、抽象作品が大半を占めているという、具象の復権が著しい昨今では珍しい内容であったことも注目されてよいでしょう。
𠮷野 毅
彫刻家・日本芸術院会員
嘗て、「彫刻をはかる物差しが、以前はひとつでよかったが、今は幾つあっても足りない」と、嘆いた人がいた。まさに今回の審査でも、物差しを用意し、当て嵌めていくこと自体が困難な作品があった。
その作品は「メロディーツリー」と題され、木製の円柱に葉っぱと覚しき数枚の板が、螺線状に差し込まれその階段に小さな球体を転がすと、心地のよい音色がでる仕掛けになっていた。傍に置かれた箱の中には数枚の板が入っていた。多分、板を差し変えることで音色も変わることが想像される。作者が子供の頃親しんだ遊具からの発想かもしれない。
彫刻という概念そのものが、大きく変化しつつある現在、実材(石・木・金属・陶など)に対する知識と、実材を形体にする技術、そして作品に込める明確なメッセージを持ち合わせている。入選者の皆さんにお願いしたい。創作をする喜びと、作業をする充実感を多くの皆さんに伝えて欲しい。
田嶋 悦子
陶芸家・大阪芸術大学教授
このたびの工芸部門への出品数は88点。多種多様な作品に出会い、あらためて作り手が想う工芸について、その幅の広さを感じました。工芸は人間のやまない創作への想いが様々な素材と技法で表現されます。応募作品の中から、とりわけ心揺さぶられるパッションとオリジナリティを求めて審査にあたりました。
ぎふ美術展賞に輝いた作品は、おおらかで微笑ましく、ワクワク感いっぱいのエナジーを放ち不穏な世の中を吹っ飛ばしていました。作品を大型化させているパーツジョイントについて、頭部を体部にかぶせるスタイルにユニークさを感じました。
優秀賞の「刻憶04 ―芍薬―」は、染料が布に浸透する表現がほとばしる生命を見事に一体化しているような、気迫ある作品でした。奨励賞の「泉」は、見る人の視線を塊状ガラスの奥深い世界へ静かに誘っていました。「美濃乃壺」は、破天荒でとらわれない様子が窺え、美濃のダイナミズムに溢れていました。
宮田 亮平
金工作家・文化庁 前長官
工芸部門は全体的に出品されている作品はとてもレベルが高く、又ジャンルの幅広さを感じた審査会であった。
特にぎふ美術展賞を受賞した宮城暁一氏の「Derriére ses yeux(瞳の奥に)」はいままでの陶芸の概念を越えて大胆でありながら繊細な作品であり、なんと頭部が揺れ動く仕組になっていることは見る人々を暖かく囲みこんでくれる作品であります。
又、岩井美佳氏の作品「刻憶04 ―芍薬―」は全体をモノトーンとし、大きなムーブマンを持って見る人々に色々な感情を引き出させる力作であります。抽象表現で有りながらどこか具象的なものを感じさせる魅力が内蔵されております。そして各務郁子氏の「たけくらべ美登利」は実に繊細にして日本の伝統文化である着物の着付けの美しさ、そして赤い鼻緒のポックリや手提げ袋の配置の気配りが物語性を充分に生かされ、そこに現代風の髪の毛の緑がマッチされた秀作であります。
最後になりますが入賞・入選されました、すべての方々に対してお祝いを申し上げます。
髙木 聖雨
書家・日本芸術院会員・大東文化大学名誉教授
ぎふ美術展、2度目の審査を担当させていただいたが、レベルの高さは以前にも増して向上しているように感じられた。特に行草作品には目を見張る作品が多く、実に充実した審査を体験させていただいた。
ぎふ美術展賞を受賞された石黒直子さんは古筆をしっかりと習熟され、更に余白を見事にとらえ、明るく爽やかな作品となった。
優秀賞、奨励賞は行草書、篆書、かなから選出したが、どの作品も練度が高く見応えのあるものばかり、充実した展示となるでしょう。
今後も古典を拠り所として、高度な技術を身につけ、更に飛躍した作品を書かれることを期待しております。
鍋島 稲子
台東区立書道博物館主任研究員・東京国立博物館客員研究員
ぎふ美術展は、応募者の年齢を問わない開かれた芸術祭と伺っておりました。書部門も、幼稚園児からベテランの方まで実に幅広い年齢層の作品が172点、分野も漢字、かな、調和体、篆刻と、多岐にわたった力作が勢揃いしました。漢字は行草書に秀でた作品が多く、今回の審査においても行草書の入選率が高い結果となりました。かなは中細字作品のレベルが高く、古典に立脚した造形と連綿の美しさに惹かれました。
今回の審査で特に評価したいのは、子供たちの作品です。幼稚園児(作品を書いた当時)の「ちえ」は、力強く堂々とした書きぶりが印象的でした。小学生の「気」は、まさに気に満ちた迫力のある作品、中学生の「桜桃」は、名前も含めてバランスのとれた伸びやかな作品です。これほどの力量がある子供たちの作品を見て、書の未来は明るいと感じました。今後もぜひ、ぎふ美術展で力作を発表されてください。期待しております。
土田 ヒロミ
写真家・金津創作の森美術館館長
21世紀に入りデジタル技術の日常生活への浸透は、写真表現にも大きな影響を及ぼし、個人の自由な表現を目指す人々の参加をもたらしてきているはずであるという時代背景を意識しながらの選考を心がけた。
このような時代の変化は、奨励賞の「(気泡)飛散症」でコンセプチュアルなアート指向強い作品となって現れて来ている。また、車庫をストレートに撮影し、光の複雑な反射、透過の現象を深く読み込んだ優秀賞の「リフレクト」にも新しい美意識を感じる。
また、大胆なフレーミングで歪みの空間を3枚の組写真で表現した奨励賞の「異空間」、デジタルの色調で遠近法を消去し異次元の空間を作り上げた奨励賞の「カラーコーン」などが、新しい時代を予感させる作品として目を引いた。しかし又、従来のスナップショットの典型的表現として奨励賞の「神男」は、完成度が高い。撮影者の視覚を超えて被写体と合一した超越的時空間に酔いしれた体験がカタチとして残されていて、更にそのエロスは、モノクロームの色調が静かに押さえるという見事な完成度の作品となっている。
そして、ぎふ美術展賞の「里山の狩人」は、枯木に獣のイメージを発見し、角度を変え対置から捉えた発想力はすばらしい。また、日常の撮るに足らない町の情景を拾い集め散文的に仕上げた20枚で構成の優秀賞の「坂出~すみなすものは心なりけり~」には、今後の写真表現の可能性を示唆してくれる作品であった。
光田 由里
美術評論家・多摩美術大学教授
レベルの高い応募作品で、激戦でした。デジタル加工による視覚的効果の工夫よりも、面白い対象や現象を発見して採りあげるという写真の王道をいく作品が目立ったと思います。
ぎふ美術展賞は、木塊を季節ごとに追った「里山の狩人」、さりげなくオブジェのドラマが作られています。
優秀賞の「坂出 ~すみなすものは心なりけり~」は町歩きスナップの力作です。「リフレクト」はフロントガラスの映り込みとフェンスの綾なす、実体と虚像の交錯が抽象的で眩暈のしそうな視覚効果が秀逸でした。
奨励賞は、縦位置でそろえ視界を絞りこんだシャープな構成が斬新な「異空間」、建築作品の個性と撮影者の造形力が噛み合っています。「カラーコーン」は打ち捨てられたプラスチック片たちが色彩の妙、光と影のコントラスト、ジグザグ構成のうまさで特別な光景となっています。フレッシュな女性陣の応募作も印象的でした。次回もぜひご応募ください。
立島 惠
佐藤美術館学芸部長
自由表現部門は、何処にもカテゴリーされない者にはうってつけの提示の場だ。自分の好きな素材、得意な技法でストレートに勝負するもよし、それらを様々組み合わせて模索、思索の限りを尽くすのも良いだろう。
今回のぎふ美術展賞の「極彩色の円周率2022」は、どちらかというと後者の印象を抱いた。澄明な色の組み合せは、如何に美しいリズムをつくれるかが鍵。本作はそれを円周率に置き換えることで、通常我々が導き出せない配色を実現していた。
優秀賞は何れも紙による造形となった。「情報の集積」は新聞紙のうえに約1㎝角の白い紙を貼り付け、市松模様を施された張子の猫。その愛らしい形態と繊細な模様の共存が美しい。もう1点は、段ボールを使った巨大な土偶ならぬ「ダ偶」。圧倒的な迫力と段ボールらしからぬ強固なつくりが目を引いた。
他の作品も多くのアイデアと拘りによる豊かな造形性を感じるものが多かったことを、最後に記しておきたい。
山本 豊津
東京画廊代表
「自由表現」では表現のための素材と技法に制限がないので、応募者の年齢も4才から80才過ぎまで幅がありユニークな作品が散見されました。
今回のぎふ美術展賞に選んだ「極彩色の円周率2022」の墨勝之さんは80才、奨励賞の「しあわせのあつまり」の野瀬昌鷹さんは12才ですが、お二人の作品は「自由表現」がないと応募も受賞もされにくいと思います。歴史的に重要な数学定数である円周率を色彩の順列に使うとは墨さんのコンセプトは素晴らしいです。野瀬さんの造形力と色彩の豊かさは、授けられた人間の直観力をどのように維持できるのかを考えさせます。子供は文字を学習するとアートへの興味を失ってしまう今の教育とは?
他の優秀賞の2人、「目型ダ偶」の竹内裕紀さんの大胆さや「情報の集積」の遠藤愼太郎さんの細部へのこだわりなども、アーティストを目指す人たちが見習わなければならない表現のポイントを掴んでいて、「自由表現」ならではの作品でした。